Mの気持ちに触れた思い出

世間では性癖をSとMに二分して、貴方はどっち?などと聞きたがる輩が少なくないようですが、私の性癖は中庸です。
とは言え、私とは違う趣味趣向をお持ちの方々を蔑むつもりは毛頭ありません。
今日はそういった性癖に触れた気がした思い出を語る次第であります。

もう6年も前でしょうか。
私は痔を患っておりました。
いわゆる痔瘻という奴でして、再発する類のものであります。
その話は別の機会にお話することがあるかもしれません。


健康な肉体をお持ちの方々には分かりにくいとは思いますが、痔というのはとても痛い。
患者達はみな、早くなんとかして欲しい、この痛みから開放して欲しい、とお医者さまに縋るような心持ちなんですね。
ところがセンセイと云うものは毎日何人もの肛門、それも不健康なものを相手にしておられる方ですから、少々のものでは驚きもしない。
つまり、診察は非常に事務的に進むということなんですね。

私が縋ったお医者さまのところではシムス体位という格好で診ていただいておりました。

患部が患部だけに詳しい様子を窺うこともままなりませんでしたが、センセイと看護婦さんが無表情で私の患部を覗き込む訳です。
物心がついてからは親にも見せることのない穴ですから、当然はずかしい。
しかし縋ることを決めたのは私なのですから堪えるしかないんです。

そしておもむろに触診が始まります。
センセイの冷たい指が私の肛門にズッと入る。
これがとても苦しい。
産まれてこのかた、親にも入れられたことのない穴、今まで出口としてしか使ってこなかった穴な訳ですから、入口として使われる感覚は初めてなんです。
身体の内側から内臓を押し上げられるような苦しさが胸の辺りまで迫ってきて、息をするのも苦しい。

でもまだ終わりません。

センセイは私の内側を丹念に指で確かめて行きます。
センセイの指の深さと私の苦しさは比例しているようでした。
深いところに来ると、押し上げられた内臓で胸が張り裂けそうになり、浅いところに戻ると、ちょっとだけ楽になるのです。

肉体的にはそんなところでありますが、精神的には違和感の塊が入ってきた驚きよりも、知らない感覚への不安の方がはるかに大きい。
自分がどうなってしまうのか分からない、肉体的にも苦しい、でも既に身体はセンセイに預けてしまっている。
こうなるとセンセイを信じて堪えるしかないんです。
自分が縋ったセンセイに縋り尽くして、この苦しみから開放されることだけを待っているような、辛く長い時間なんです。

ですから、終わった時の解放感はあるものの、精も根も尽き果てていて、ぐったりと誰かの胸にもたれかかりたいような気持ちになってしまいます。
ですが不思議なことに、誰でもいいとは思わないんですね。

同じ痛みを知っているはずの患者さんたちではダメ、看護婦さんでもない。
やはり自分の意思でお縋りし、私のすべてを預けたセンセイの胸にもたれたい。
良く頑張ったと言っていただきたい。

ですが先ほど申し上げた通り、診察というものは非常に事務的なものでありまして、自分の仕事が終わるとセンセイはさっさと出て行ってしまう。
看護婦さんもそう長い間いてくれる訳でもない。
独り残された私は着衣の乱れを直しながら、医者と患者という関係を思い知るわけです。

さて、長々と私の思い出ばなしを致して参りましたが、こんな経験を経たある日、ふと気付いた訳です。
心身ともに預け切った相手との交渉が苦しければ苦しいほど、事後の心は相手に依存したい想いでいっぱいなんだ、と。
苦しいのが好きなのではなく、苦しんだ後に得られる安らぎの為に、進んで苦しみを得ようとする人がいるのではないか、と。

つまるところ、SとかMとかいうものは性癖ではなく、人間関係のひとつなのかもしれない、と思い至った訳であります。

懺悔録─我は如何にしてマゾヒストとなりし乎

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