仏教的に「なぜ生きるのか」

先日、なぜ生きるのかということについて記事を書いた。

今日たまたま「なぜ生きるのか」というテーマのお話を聞く機会があったので、視点を変えて考えてみたい。


今日は仏教系(ていうかお寺)の幼稚園に通う次女の参観日だった。
11月8日は「成道会(じょうどうえ)」という仏教の記念日だそうな。

成道会(じょうどうえ)とは、釈迦の成道(悟りを開いた事)を記念して行われる法要(行事)のことである。

これにちなんで、先生が「おしゃかさま の おさとり」という紙芝居を読み聞かせてくださった。

その中で耳に止まったフレーズがあった。

  • 生きる苦しみから逃れる方法を探して旅に出た
  • なぜ生きるのかを勉強し続けた
  • お悟りを開いて「命は皆つながっている」ことを説いた

「生きる苦しみから逃れる方法」と「なぜ生きるのか」が「命は皆つながっている」ことで解決しているのかが良く分からない。
でも、2500年以上も続く仏教の教えなら、調べる価値はありそうだ。

仏教の教えをあらわす3つの言葉があります。

諸行無常 (しょぎょうむじょう)
あらゆるものは常に変化している。

諸法無我 (しょほうむが)
すべては他のものとの関係によって成り立っているのであり、諸行無常の変化も、周囲との関係によって起こる。他から独立して存在するものはない。

涅槃寂静 (ねはんじゃくじょう)
諸行無常・諸法無我の真理を深く自覚すれば、何事にも動じない平安な境地に達する。


つまりこういうことか。

  • 自分の現状もいずれ変化するので、クヨクヨしなくてもよい
  • そもそも「自分」も変化の一過程であり、曖昧なものである
  • それが分かっていれば思い悩む理由がなくなる

なぜ生きるのかという解として弱い気がする。


常に変化しているあらゆるものの中で、因果関係の一部として存在すること

これを知ることが幸せを知ることであり、実践することが生きる目的(=存在すればOK)というのがお釈迦様の教えと言うことかな?

なんだろう、これは植物の心とでも呼びたい気がする。
仏教的には「人間らしく」「人間だから」にこだわること自体がナンセンス、ということですかね。

盛大な人生

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