”ウェアラブル”がもたらす機械信仰への不安

ウェアラブル端末、という言葉をよく耳にするようになりました。


小型化技術と無線通信環境の発達により、アクセサリーのように身に付けるコンピュータが登場し始めた、ということだそうです。
人間の行動を記録し、分析することで、インフルエンザに罹るリスクを警告できるようになる、と紹介されていました。

近い将来、風邪を引くのは相当間抜けなことと認識されているのかもしれません。

え、風邪?
オマエ、ウェアラブルの言うこと聞かないのかよ!?

確かに、ウェアラブル端末が、基本的な健康管理などに大きな効果が望めそうだ、ということには賛成です。
ですが、生まれたときから機械に従うことが当たり前の世代を想像すると、怖い気がします。

アドバイスをくれているのは機械ではなく、先人たちの研究の成果であって、機械はそれを再生しているだけです。
それを知るよりも先に、ぼんやりとした機械への信頼感を抱いてしまうことを危惧します。

機械はあくまでも道具であって、使い方を誤れば、どんな道具も安全ではありません。
例えば、ハサミが切れるのは道具として当たり前で、それを正しく使えるかどうか、疑うべきは人間の方です。
だから、小さな子供がハサミを使う場合、親はハサミではなく、上手く使えないであろう我が子を見守ります。

人間が主、道具が従。
この関係は技術の進歩に関わらない、普遍的なルールです。
ウェアラブル端末は、それを覆す技術ではなく、覆ったと錯覚する技術のように私の目に映るのが、不安の元なのです。

デジタル化が進んだ、というのは、高度な道具がより身近になったと言える。
道具ってのは、人間の能力を増幅することはできても、人間そのものを良くするものではない。
使う人の能力がゼロなら、道具を使っても、結果はゼロだ。

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